ミッシェル.フーコー 『監獄の誕生』

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 人文、社会諸科学を大きく方向づけているものに、言語や記号現象への関心がある。

例をあげれば、ウィトゲンシュタイン言語ゲーム論、オースティン発話行為論などです。

 これらは、社会の存立そのものが、言語的なコミュニケーションと同様のメカニズムに支えられていることを示唆して、社会理論にも多大な影響を与えたのです。
 

 フランスのミッシェルフーコーもまた、このカテゴリーの思想家、科学者に入るでしょう。

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ミッシェルフーコー

 彼は、 『狂気の歴史』『言葉と物』『知の考古学』などの書物を経て、言語や振る舞いの秩序とその周りのものの秩序とが、人々とどう交錯し、人々の生に影響を与えてきたかを詳らかに分析してきた。
 

 『監獄の誕生―監視と処罰―』は、分析の焦点を、身体を扱う政治技術や建築的装置から言説的な秩序の領域へと広げ、また「権力」の概念に全く新しい見方を取り入れ、近代以降のわれわれの社会を分析する新しい視点をくわえた傑作です。

 この本の最初に、18~19世紀においてなされていた刑罰の内容を報告している。

 それは、公衆の目の前で、灼熱した棒で受刑者の体を叩き、硫黄の火で焼き、鉛、油、松脂、蝋を浴びせかけ、八つ裂きにし、さらに焼き尽くした上で、その灰を撒き散らすという過酷さと華々しさに満ちた「祭式」であるのに対し、

 監獄は起床から就寝にいたるまでの在院者の日課を逐一管理する監禁のダイヤグラムである。

 受刑者の身体を過酷かつ華々しく傷つける刑罰から、受刑者の振舞いを厳格に規律化する刑罰への移行。

 『監獄の誕生』が照準するのは「身体刑から監禁刑」にまとめられる。

 フーコーが描いてみせたのは、単なる監獄という制度のみならず、

 「近代」というこの「監禁的なるもの」に満ちた社会の誕生なのです。 

 
 フーコー・コレクション〈4〉権力・監禁 (ちくま学芸文庫)

 フーコー・コレクション〈1〉狂気・理性 (ちくま学芸文庫)



 このような、移行の意味を、フーコー社会における「権力」の関係の歴史的な移行・変容として鮮やかに描いてみせている。
 
 一般的に権力は「他者の意図を排除して、自己の意思を貫徹しうる能力」と解されていた。Aという人物が自己の意思にかかわらず、あるいは自己の意思に反してBという人物の意図する通りにふるまわれてしまう時、BはAに対して権力を持つ、というのが権力」についての一般的な理解である。
 

 しかし、フーコーは違うのだという。

 彼は、「権力とは所有されるよりも、行使されるものであり、支配階級が獲得したり保持したりするような特権ではなく、支配階級がその社会で占める戦略的立場の総体的な効果であり、また被支配者に対して義務や禁止として強制するものではなく、それらの人々を取り巻き、貫き、それらの人々を拠り所として作用するもの」だという。

 要するに権力は、BがAに対してもつような「力」なのではなく、Aに対する「力」をBにもたせたり、Bに対する「力」をCにもたせたりするような処々の「関係」なのであり、それらの連関を通じてAやBやCといった人々の集まりを一まとまりの社会として成り立たせうるような「関係」の網の目、あるいは数学的な意味での「行列」なのだ。

 要するに、フ-コーの権力理解は、権力と社会に対するまったく新しい考え方です。
 

 身体刑において刑罰は、犯罪によって傷つけられた社会の秩序に見合うだけの苦痛を受刑者の身体に加え、侵犯された秩序の回復を象徴的に上演する政治的な「祭式」と考えられている。

 政治的手続きとして傷つけられるのであり、人々はそのような祭式の上演を通じて、社会秩序を貫く権力の存在を認識するのだ。

 フーコーによれば、身体刑の時代の権力は、その存在を人々の前に誇示することをもって特徴づけられる。

 これに対して監禁刑は身体刑の持つ豪奢や華々しさを徹底的に欠いている。

 監禁刑は受刑者の内面に照準を当て、その犯罪への傾向を特定の尺度によって測定し、慎重にそれを矯正することをこころみる。

 
ここには、刑罰の対象と目標に関する歴史的な断層が存在する。
 

 政治においては、個人の内面の要求を重視するために一般市民の政治参加を促すために、選挙という制度が編み出され、商取引では自由な個人が雇用契約の主体となり、教育の現場ではそのような個人の精神や人間性の向上がめざされる。

 近代という社会は、自由な個人を主体ないしは客体となる様々な制度によって成り立っているのです。

 そして、監禁刑とは、その社会からの逸脱を矯正する制度なのです。

 
その施設として監獄は誕生したのです。

 
 受刑者の「精神」に標準する監禁刑とは、不断の監視の下で受刑者の振舞いを時間的・空間的に規律するものにほかならない。

 この最後の部分で「監禁都市」というものに言及している。

 そこには、様々な力の中核が存在するかわりに障壁や空間、制度や規則、法律、言語表現など様々な網目が存在し、これらの装置のそれぞれが権力をふるい、それらの戦略的な総体が人々の身体を個別的かつ集団的に捉え、規律・訓練的な主体を作り上げる。

 監禁都市、それは「近代」というわれわれの社会です。


 なるほど、おもしろいことをいうものである。

 身体刑など今の先進社会ではないし、身体刑から監獄における監禁刑への変遷は、犯罪者が社会に適応させるための内面の矯正のための変遷に変わったということは、「なんだ、あたりまえじゃないか」といわれれば、その通りですが、その歴史的意義や成立した歴史的背景を学ぶのは、知的好奇心を刺激されて実に面白い。
 
 身体刑は権力の存在の誇示のためにあり、監獄は犯罪者の内面的矯正を目的に編み出された。今はもっぱら監禁刑です。

 しかし、それですべてであるとはいえないのではないだろうか。

 現代において、身体刑をしないことによってそれでよいのだろうか。

 いや、そうではないでしょう。

 確かに、監獄のというものを、人間があみだしたのは、進歩といえるだろう。

 しかし、家 庭においても、学校においても最近は身体刑がなくなった。

 それによって、人間が身体的な痛みを忘れ平気で人を肉体的に痛めれるようになった。

 
最近の凶悪犯罪やいじめはこういった面も大きな原因になっているのは間違いない。

 自分が体験していれば決して出来ないことをこのような犯罪者は平気でできるのです。

 こういった犯罪者が、監獄で内面の矯正を行われれば社会に出て、上手く人と付き合えるのかどうかは疑わしい。
 

 確かに、内面の矯正は必要だがそれだけではないだろう。

 求められるのは、今一度人間的な生活を戻すことであろう。

 
今はゆたかさに溢れ、寒ければ暖房をつけ、暑ければクーラーをつける。

 これでは、寒さや暑さを我慢する忍耐力がつくわけがない。

 腹がへれば家には食料があり、近くのお店に行けば、お金を払えば食べ物を買って食べることができる。

 毎日満腹でいられる。

 このような生活をしている現代人に、アフリカで飢えている人の気持ちをわかれ、といっても土台不可能である。

 殴られたことがない人に殴られた人の痛みを分かれといったところでわかろうはずがない。

 こういった面をふまえて、もういちどわれわれは身体に関してこれからのあり方を模索し、それを実行していくことが大切なのではないだろうか。

 これはなにも、身体刑時代の「受刑者の体を棒で叩き、硫黄の火で焼き、鉛、油、松脂、蝋を浴びせかけ、八つ裂きにし、さらに焼き尽くした上で、その灰を撒き散らす」などという身体刑を復活させるべきだなどというつもりはない。

 ただ、身体に、人の痛みやつらさをもどすような生活をするべきなのではないのだろうかと問いたいだけである。

 体罰も度をこえないかぎりではやむをえない。

 内面を矯正するだけで、それで良しとは私は思わないのです。

 
この本を読みながら、そういった面を考えさせられたのです。

















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