西尾幹二 『自由の悲劇』

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この本は、1990年に世に出されたものだが、現代においても学ぶべき教訓があるとおもわれたので、このブログに出させてもらいました。

1990年のまえ、社会主義諸国の経済がどうにもたちゆかなくなり、この諸国は社会主義をすて、どの国も資本主義市場経済に移行した。

第二次大戦後、社会主義は地上に楽園を建設するバラ色の社会を築くというドグマのもと、それを信じて疑わなかった知識人が、日本でも少なからずいたが、70年代のなかごろから、社会主義諸国における自由の抑圧、人権無視、個人崇拝が明らかになっていったのである。


それが、社会主義諸国の国民から反乱をうけて爆発したのが、90年における社会主義の崩壊であったのだ。

これらの国の国民は、これから資本主義のような「自由」-情報の自由、市場経済の自由、移動の自由、政治参加の自由を必死に求めているのだ。

しかし、彼らが求め、勝ち取っていこうとしている資本主義における自由はどんなものかを俯瞰してみる。

現代の資本主義諸国では、政府批判の言葉が好き勝手に言われているために批判効果が薄れてしまっている。

大自然を映し出す映像から微生物の図まで映像で流されているかと思えば、ポルノやホラー映像まで流されている。

映像のみならずあらゆる領域で自由が氾濫し、何を選択したら良いかわからない情報過多社会である。


おまけに、末端消費財は溢れかえっている。

これは、フロムが規定した「何々からの自由」が果てしなくひろがった結果である。

直接的に拘束し、抑圧するものは、今は何もない。

このような現代社会において、意図的に自分を閉ざす、すなわち自閉症状をあえて演出する以外にわれわれは何かの仕事をなしとげることはできない、敢えて意図的に小さなワクを作っているのであると西尾氏は分析している。

また、現代の文明社会において、人間が自然とともに生きていれば必ず遭遇する生理的な痛みや辛さといったものが生活の中から排除されるようになっている。

例えば、交通事故、テロ、内乱、異常犯罪、これらの痛みや辛さといったものは、実際に遭遇したものでないとわからないのである。

しかし、マスコミにおいては、記事を書く人が事実の前にたじろいで自分の解釈をくわえているにすぎない。

せいぜい、事実を予感させてくれる1つ2つの具体的な形象の想像にとどまっている。

また科学の領域においても、解明済みのわかったことしか書かれていない。

これでは、脳を刺激して、大発明を促す誘因にはなりえない。

このような情報や財があり余り氾濫している時代を西尾氏「情熱のない時代」と規定している。

このような、資本主義社会の、行きすぎた自由へ、旧社会主義社会はこれから向っていくのであろうか。

これらの国の民が未踏の領域であるだけにその可能性は大きい。

今、われわれ資本主義社会の民が経験した弊害であることを歴史的経験として学び、そういうようにはならないでもらいたいものだが、どうだろうか。

最後に、強調しておきたいことは、西尾氏のこの言葉である。

人間はいかなる場合でも、不自由な条件にしばられて生きているのだということを、心のどこかで意識していなければ生きていけない存在である。

今の、あり余るほどの自由を手に入れた、現代社会のわれわれは、自分で自由を勝ち取るという経験を経ていないために、そのありがたみがわからないでいる状態である。

そのために、 「自由」に振り回されている状態である。


その、自由のありがたみがわかり、それを自ら獲得し謳歌する喜びを得るには、一度自由のない状態に身を置く以外に道はない。

その状態に、自分を置いてみることである。


いま教育に課されているのは、子供をこういう状態に置くこと、そしてそれに耐えれる人間をつくることではないだろうか。

そのためには、教育をする側も自らそういう状態に自分を置くことが求められるのではないだろうか。

この本を読んでそう痛感したのである。

●そのことに共感した方は、ぜひともこの本を読んでいただきたいです!
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自由の悲劇―未来に何があるか (講談社現代新書 (1024))






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