和田伸一郎 『存在論的メディア論』

ある本で哲学はあらゆる科学を基礎づけるものである、と書いてあったことを覚えています。

哲学とは、人間や世界の根本原理を追求する学問というふうに定義されていますが、その追求のためには色んな角度からものを見ないことには始められない話しです。

科学は、いろんな情報や知識、考え方といったものを総動員しなくては話しになりませんから、その意味することには同意します。

しかし、某社会学の本を読んで、社会学もあらゆる科学を基礎づけるものではないか、と思ったことがあります。

それは、どんな学問にでも言えることであって、他の学問、例えば文学は科学を基礎づけるものである、ということを謳う学者がいてもおかしくはないでしょう。

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そんな学問の1つである哲学の1分野である形而上学ですが、これは非常に難解な学問でして、時に読み辞めたい衝動に駆られることもしばしばでした(笑)

これは、哲学1分野であると言われることがありますが、感覚や経験を超えでた世界を真実在としてその世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問であるとしています。

科学は、問題点について色んな角度から、ものごとを眺め観察してそれを良き方向へ向かわせるのが主目的です。

それゆえに、その問題点に関する情報や知識を収集していくわけですから、いま自分が生きている時点、あるいはそれまでの人類の蓄積してきた情報や知識を総動員するだけで事足ります。

しかし、話しがこと形而上学になると、それだけでは物足りないという価値観を持っている人、あるいは生まれつきそういう人生観を持っている人によって論じられるゆえに、意味不明な文に結び付けられるゆえに、あまり理解のできない本であることがしばしばです。

やはりこういう形而上学の本は凡人では書けない性質のものであるようです。

私は本好きか嵩じて小学生時代にいろんな文学作品を読みましたが、何かしら割り切れなさを感じていました。

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しかし大学に入って、新書など明快な論文で書かれた本を読むにつれ、その魅力に惚れて、そういう論文で書かれたいろんな分野の本を読むようになりました。

文学では得れない、明快さが私の性分にフィットしたのです。

その文学に存在する不明瞭さがこの形而上学にも存在していると言えましょう。

いやそれ以上の不明瞭さと言っていいでしょうか(笑)。

その形而上学ではハイデガーヴィリリオといった人が有名ですが、その2人の影響下にこの『存在論的メディア論』の著者もあることは明白です。

この2人が生きた19世紀後半以前にも、中世4世紀にも形而上学の時代は存在していたようで、当時の宗教化した文明の中では人々は写実の精神を失いすべてが形式化したようです。

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中世に描かれた植物図鑑には、草の根がトカゲになっていたり、犬の成る木だったり、非常に面妖な物がたくさんあるわけです。

それは写実の精神の喪失ゆえにそうなるのでしょう。

また19世紀後半から今にかけて存在している形而上学者の書く本も似たような事情でしょう。

現在に存在するものだけに依拠する科学の精神だけではあきたらずに、それらを超越した視点や世界観でものを論じたい、あるいは論じざるを得なくなってしまったゆえに、そういう論文を書かざるを得なくなってしまった。

そうではないでしょうか?

そういう世界観を持つ人の書いた本は、やはり凡人ではないなと感じます。

凡人でない人の書いた本ゆえに、いつも違う次元で、しかもほとんど脳内でものを考え続けているがゆえに、これらの形而上学の本は読んでいると、そのスラスラと一気に何十ページ、あるいは何百ページも書き上げた観を感じるのです。

違っていたら訂正しなくてはなりません。

これは凡人とは違う能力が備わった、ゆえに神憑りの仕事というように感じるのです。

いや、今生きている現実的な思考だけで論じずに、それを超えでた次元で論じているゆえにも凡人でない人の仕事でもあるので、二重の意味で神憑りの仕事というように感じるのです。


孤高の存在なのかもしれませんね。

自分が生きている現在にある物事を多面的に観るだけでは飽き足らなく思って、このような文章になるのでしょうが、読んでいてイマイチというかほとんど意味のわからない文が多いのです(苦笑)。

例えば、この本から引用した以下の文を読んでもらえればわかります。

「現代のメディア利用者は常にすでに技術の《ポテンシャル》へと投げ出され、それを引き受けつつ(あるいは引き受けないまま)自らを技術的世界へと投企し、〈実存〉する事においてメディア利用の〈現存在〉(世界内存在)である。」

ここを読んで意味の分かる人はどれくらいいるでしょうか?

私にはほとんどわからないです(笑)

私は大学時代に政治学のゼミに入っていたこともあり、また政治学に関する講義に多くでていたこともあり、丸山真男の名はよく聞いたし、それゆえにこの人の本もそれなりに読みました。

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しかし、非常に難解で読みづらかったのです。

この文章みたいに。

何が書いてあったかを問われても、何も答えられないといった感じでした。

また、哲学に関する本も多く読みましたが、やはりこういう難解な本が少なからずあり、そういった本は印象に残らず、そういう本を読む時間がそれほどない私は難解な文章をかく著者はNGリストに入れて、買わない、読まないようにしているのです。

しかしなぜ、このような現在を超越した論理構造を持っているがゆえに、素人にはほとんど理解の獲れない形而上学の本が出され、形而上学の講義が大学でなされていて、しかも売れて、講義も廃止にならないのでしょう?

それは現代が暇のある時代、有閑の時代ということでしょう。

科学的な本や講義だけでなく、こういった非科学的なそれらが存立し、熱中できる時代であるということが言えるでしょう。

ヴェヴレン『有閑階級の時代』が書かれた時代とハイデガーが生まれた時代が一緒であったのも一致していますね。

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   ハイデガー


そういう意味不可解な文章を読んでいるより明確に伝わる文を読んでいたほうがいいので、そちらを読むようにしています。

では、形而上学の本は読んでいて意味があるか?

生活に役立つか?

と問われたら、知的遊戯の時間を過ごすだけですから、あまり意味があるとは思えませんね(苦笑)

いや、この私の主張にも反論があるでしょうから、その是非はご自身で読んでみることをおすすめします。

ゆえに、自分の頭で考える力のない人の書いた他の本を抜き書きばかりして書いた本となにか違いがあるかと言われれば共通点があるかもしれないです。

あまり読む意味がないですから。

では、抜き書きばかりの本とある意味同じかもしれませんが、抜き書きばかりの本は読んでいてつまらないですしすぐ読みやめてしまいますが、こういった形而上学の本は意味がほとんどわからないですが、考えさせられるので読み進めてしまいます。

ゆえにこの本も329ページもの大冊ですが、最後まで読破しました。

形而上学的な世界観で、携帯、スマホ、インターネットなどメディアについて書いたのがこの本です。

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科学的な世界観では書いていないので、そういう世界観に触れたい、興味のある人は読むのでいいでしょう。

●この本は以下よりどうぞ。
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