櫻井進 『〈半島〉の精神誌』

この著作は社会学というカテゴリーに入っているようですが、純然たる社会学というものではないでしょう。

この著者が学んだことは社会学だけではないゆえに必然的にその他の要素も入ってしまうのは自然な成り行きでしょうし、社会学以外の要素も色々入っているようです。

しかし、社会学が骨子であることは間違いないようですね。

その社会学ですが、これは他の社会科学のように「ああなればああなる」といったような法則がある学問ではないので、他の社会科学とは区別しなければならない、という事が書かれた本を読んだことがあります。

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その趣旨はわかるような気がします。

社会に存在するいろんな物事を、好奇心の赴くまま探っていて、そこに未発見の事実や分析した理論を構築するというのが社会学の骨子のようです。

ですから、そこには読み手に当為を語るということもないのでしょう。

中には当為を語る社会学もありますが。

自分だけの脳内で分析したものや事物を見つけそれを本に書く、そんなスタンスがある人の文章は興味深いものです。

この本では、「学校の中では細分化されたカリキュラムが適応され、子供の領域に身体と時間の分節化が導入された」とか、「今やどこにも資本主義によって侵食されない時空間は存在しない」といったような文章ですね。

休日の朝に、コーヒーを嗜みながら読むのに最高なのがそういう本ですね。

この本はそういう本になるのでしょう。

逆に、他の本のただの書き抜きばかりしている文では面白くないですね。

すぐに中古本屋に売るリストに入ってしまう(笑)

この本は、ユニークな表題ですが、どのような趣旨かといいますと、大陸に対して半島のような隔てた場所にある場所が、大陸に住む人たちにとってどのようなイメージを換気していたのかをロマンチックに描写しているのです。

ときに文学的に、ときに学術的に。

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その描写が、如何になるかがその著者の腕の見せ所なのですが、この著者は巧みに表現しているのが良かったです。

読み手にほとんど当為を語ることのない社会学ですが、その性質上、知的遊戯になる本になる可能性があるのですし、そうなったらやはりそれは読み手にとっては非常に心豊かになる時空間を愉しめるのです。

半島がいかようにして、大陸の人間から畏怖のような、異次元のような感覚で問われたかという命題に対して、

「神の代から人の代への移行が外部との交通の空間があった〈半島〉が閉ざされた自開的な空間としての〈島〉へと内向していくことによってもたらされたことを物語っているのではないか。」

としながら、

「だからこそ、上田秋成は新たな海幸、山幸の物語として「蛇性の婬」を語り、真好に構造的破壊的な存在としての性格を付与し、人間的世界に異なる論理をもって大事にしようとする物語を構築したのである。」

と結んでいます。

ここをよむと論理的な整合はありえないですが、非常に面白く興味深い論述の展開をしている。

いってみれば、半ば不可思議な展開をするのが社会学の興味深いところであり、知的遊戯本の本たる所以なのだとすら言えるのです。

この本の最初の方で、かの地中海の歴史で有名なフェルナン・ブローデルの言葉を引き合いに出しされています。

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それは、この箇所が妥当だろうと思われたからだろうと思います。

この著者が、ブローデルの言葉が、真理に達しているということで。

しかし、ブローデルとしても、多くの膨大な資料や本をみて分析したであろうとことは容易にわかる。

しかし、昔の事であっただけに、完璧な分析ではないことは確かである。

ゆえに学者や教授といった人たちはどうしても批判にさらされる運命にあると言えよう。

たとえブローデルのような歴史の大家であってもである。

完璧にはなれないとわかって努力しても、やはり完璧にはなれない。

それは真理といいかえてもいいでしょう。

いつまでたっても真理には到達しないのです。

しかし、私含め読書を愉しむ人は、その真理を求めて本を読み知的な探索に向かっていく。

その行為に歯止めがかからない…それこそが人生の楽しみでもあります。

そこでは、海洋という予測不可能な自然の驚異を前にして、過剰な心理的なストレスやエントロピーを抱え込んだ人間が、自然/文化の二項対立の図式によって理解可能なものとして分節化される以前の自然の暴力性にどのようにするかが問題になっているのです。

常世国は永遠の生命を人間にもたらすという意味で、豊穣さを持つと同時に死の世界の無限の闇を持っていることも間違いないでしょう。

やはりこれは、こんにちのように情報が豊富でない時代において、やはり何もかもが調べれなかった時代における時代特有の人間的な心理だと思えるのですね。

当時の人間たちが、こんにちのように情報が多くあってすぐに知ることができる時代であったとしたら、この本にでてくる本のような内容のものも出来なかったことも間違いないでしょう。

その心理と、こんにちの人間の心理を対比構造として描いた学術的な本があったら興味深いし読んでみたいなと思いますね。

これは〈半島〉がどのような認識をされてきたかを論じている本ですが、それに類比する概念として南方を取り上げているのです。

自己閉塞をしつつある西洋近代の北方の知の位相から西洋社会に新たな生命を吹き込むものとして、地中海という西洋世界の外部が見いだされ、そして西洋は南方を植民地支配の下のおきながら、他方をそこに西洋が失ってしまった神秘的な世界を見出そうとしたのです。

日本でもそのような自分たちの住んでいない未知の、異質の世界を捉えていたことがわかり興味深くなりました。

鯰、鹿島、ミロクが民俗世界において連合したイメージを形成するのは、14~15世紀に鹿島の浦に救い主が訪れるという信仰が芽生え、それが鹿島神社の選択によって東国に広まったからであり、更にそういった世直しの信仰が大鯰が大都市を破壊するという江戸の都市住民の信仰と結合したようです。

これもこんにちのように、科学が発達して、しかも情報へのアクセスが容易に可能となった社会では起こりようがないことは間違いないですね。

しかし、非常にこういう世代の変遷をみるのは楽しいですね。

興味深い。

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そして〈半島〉と同じようなイメージを喚起する概念として、岬を挙げているのも興味深いです。

岬は、自己同一的と思われた文化の中に、もう1つの他者を見出しうる空間であり文化の同一性を動揺させる空間であった、としているのです。

その詳しい内容については本書を読むのがいいでしょう。

このように社会学は、知的遊戯になりやすい学問であり、自分が今いる時空間においてそれほど有意義なことが学べないし、政治学や経済学のように、人に当為を語るものではない性質上、社会科学ではないとする学者が国の内外の両方でいるのを知っています。

いやそんなことはない、社会学は立派な学問であり、生活に密着した学問だ、という人も当然出てくるでしょう。

しかし、それはその人がそう思うのであればそれでいいでしょう。

あえて社会学を学ぶ効用といえば多面的に物事を見れる脳を作る事ができる。

物事を奥深く分析する事ができる学問であるということでしょう。

そうすることで、人生における可能性が肥大することは間違いないのです。

可能性の肥大…それは他の学問も同じ、という意見も出ましょうが、私は当為を語ることが少ない、あるいはまったくない、という点からして、社会学は知的遊戯的な要素が色濃く、気楽に愉しめる、それゆえに優雅な時空間を味わうことができる、ということを強調しておきたいです。

そんな時空間は他に代えがたいものでしょう?

そんな事が可能になる本として、この『〈半島〉精神誌』をおすすめしたいです。

●この本は以下よりどうぞ!
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