デヴィッドリースマン 『孤独な群衆』

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 この本は大学時代に読んでおく必須の書物としてよく聞かされたものです。

必須であるかどうかは、読んだ人の判断におまかせしますが。

 
私の判断でいえば、非常に分厚くて文字の量が多いが、大学の4年間のある期間をかけて読むに値する本であることは確かです。

 この本のなかで、著者デヴィッドリースマンは、1920年代以来のアメリカ社会とそこに生きる人々の生活の変貌の有様を、独自の明晰な頭脳で分析して書いたもので、読み手に非常な説得力をもって迫ってくるのです。 

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デヴィッドリースマン

 リースマンによれば、社会的性格の変遷によって人間の行動様式も変わっていくという。その変遷の仕方は、以下のようになる。

 人口の高度成長潜在期、過渡的成長期、初期的減退期の3つになる。

この3つの段階に応じて、伝統志向、内部志向、他人志向へと移行していくという。

 まずは、高度成長潜在期であるが、ここでは、その成員は、社会への同調性が伝統に従うことによって保証されるように社会的な性格を持つという。

ここの社会では、先祖伝来の儀礼と慣習の体系により厳密に規定されているのです。

 第二の、過渡的成長期においては、成員の同調性は幼児期に、目標のセットを内在化することによって保証されるという。

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このようにしてできた、内部指向型人間は、両親や権威によって個人の中に据え付けられ、それが指示する羅針盤の針路からはずれると、罪の感覚をよびおこす。

 第三の、初期的減退期においては、外部の他者たちの、期待と好みに敏感である傾向であることによって、その同調性を保証されるような社会的性格がすごく広くなるという。

この時期の特徴的性格である、他人指向型人間に内在化されるのは、行動の規範ではなく、同時代人によって発信される信号にたえず注意を払い、ときにはその流通に参加することだといいます。

 
この他人志向型の特徴をもつ人々が、第二次大戦後、アメリカ大都市の中産階級、それも若い人々にあらわれ、いずれちかいうちにこの性格を持つ人々が、アメリカ全体のヘゲモニーを握っていくだろうとリースマンはのべた。

 実際に他人指向型人間はアメリカのみならず、日本を含む先進国で、程度の差こそあれ多数派になったのである。

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 なるほど、私はこのところをはじめて読んだとき、ものすごい説得力にただただ閉口してしまったのです。

 実際に、自分の周りは、自律的精神を持たずに、周りの人間に歩調をあわせて生きていた人間がほとんどであったし、人に惑わされないポリシーをもって生きている人間は皆無に近かったからです。

 こういう、自分の身近な事象を端的に分析された説明を読むと、ついついその著者の世界に惚れてしまうのです。


 そして、リースマンは、それぞれの時期の人間が、自分の親と、同輩と、マスメディアとそれぞれ、どのように態度を変遷させていったかをつまびらかに描写しているところが面白いです。

特筆すべきは、マスメディアとの関わりです。

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 初期的人口減退期において、マスメディアの人々の生活に、以前とはくらべものにならないほど浸透し始めた。

 他人志向の子供たちは、仲間たちのきまぐれな趣味に強い興味をしめすと同時に、そうすることで自分のレーダー装置が正常に作動しているかどうかをたしかめていく。

 そして、内部志向的な時代の物語の主人公のきわだった特徴は野心であり、しかもその野心は読者たちが同一視しうるような性質のものであった。彼らが関心を寄せたのは、単に野心の実現をとう結果ではなく、そこにいたるプロセスであった。

 それに対し、他人指向型の子供たちは結局のところ、物語の内面的な複雑さ、例えば、道徳的な葛藤といったものには関心をしめさない。彼らにとって関心があるのは、誰が勝つのか、ということだけになる。

 このような傾向はクイズ番組やスポーツや政治的ショーの興隆にも見て取れる。

 さらにリースマンによれば、他人志向の時代にあっては、大衆文化がしばしば、集団への適応の訓練のために使われているという。彼がとり上げるのは、音楽や料理、婦人雑誌、漫画等々です。

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 この本のなかで、リースマンが取り上げているのは他人志向的社会における自律性の問題です。

自律の契機がどのように現れるかということである。

  一方で、職場のなかに様々な社交的要素が計画的に導入され、他方で人々が家庭のなかでマスメディアに囲まれて引きこもる。

このような状況が続く限り、他人志向的な社会から自律性が醸成される可能性は少ないという。

 
なるほど、現代日本は確かに、他人志向型社会であるといえる。

 携帯電話が流行れば瞬く間に国民誰もが携帯電話を持つようになり、今はもっていない人間をさがすのが困難なほどです。

インターネットが流行ればたちまちのうちに国民的支持を受け、インターネットにつないでない家をさがすのが、今は困難です。

また、イケメン俳優が出現すれば、たちまちのうちに国民的支持をうけ、某テーマパークが有名になればすぐに国民誰もが行くようになる。

音楽のポピュラーなアーティストが有名になればたちまちのうちにそのCDが大売上げを記録する。

生活思考が周りの人間に合わせるのが第一になっているのだ。まさに、他人志向である。

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 しかし、もともと日本は同質を強いる社会です。

風変わりな人間や周りの人間とちがう事をしている人間は、そのやっていることが良い事か悪いことか判断されずに、ただ違うということだけで、嫌われたり疎まれたりされる、そんなことを、学校や会社などで経験したことのある人はたくさんいるでしょう。

 日本は古来農耕社会であったために、同質を強いる社会であるということがよく説明されてきた。

文化的に根づよく他人志向だったのです。

 そこへきて、初期的人口減退期に入り、マスメディアの大幅な浸透によって他人志向の傾向が強まったということが言える。

 であるから、現代の日本人は二重の意味で他人志向なのだ。

  しかし、私が生きている東京においては、その他人志向的な傾向は薄れていっているように感じる。

東京への大量の人口流入により、数十階もの高層マンションが林立して、売りにかけた途端に売り切れになったりするところが数え切れないほど存在している。

 そこでは、入り口は勿論、玄関や窓に強いセキュリティーを敷いて隣や上下の戸の住人とほとんど交流することはない。

テレビやインターネット、DVD、ゲームの普及
により、家に帰ってきても、個人的にこういったものにこうじる傾向が強い。

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 昔は、地域の共同体が生きていて、定期的にお祭りや縁日は勿論、運動会やバーベキューなどの各種イベントがあったのですが、最近の人は個々に閉じこもる傾向が強い。

とても他人志向ではない。


都市になればなるほどその傾向は強い。

だが、依然として他人志向の傾向は残っている。


 この本を読んで思われやすいのは、 「内部志向が立派で、他人志向がダメだ」みたいな勘違いでしょう。

優劣などないでしょう。

 私は、内部志向か他人志向のどちらかと問われたら、間違いなく内部志向であると思う。

物事をキチンと頭で吟味して、自分の確固たる信念で行動していると自信をもって言える。

 高校は進学率が1割を切る学校であったが、絶対に進学するという信念の元、自力で進学し、進学してからは、遊びまくっている人たちを横目に、講義には100%出席していた。

 中学から始めた某趣味についても、学校時代あれほど熱烈に毎日語りあった仲間たちも、進学や就職や結婚を期に、どんどんやめていったにもかかわらず、自分は今でも続けている。

 ある職場で周りの人が間違った方向を進んでいったにもかかわらず、自分は固い信念の元、それに加わらなかった。今でもこういった生き方に変わりはない。

自分が物語で興味があるのは、主人公の内面を見ることである。

 

内部志向と他人志向どちらが良いのであろうか?答えは勿論ないです。

 自分で決めるしかないでしょう。

ただ、提案したいのは内部志向の面でくみとってもらえる一面があるならば、くみとってもらいたいということである。

 私は、某趣味について、周りがやめても自分はやめなかったと書いた。

それで、今でも幸せかと問われれば、かなり幸せであると声を大にして誓える。

毎日その趣味をする時に、いつも幸せだなあと感じている。

周りがやめても強い信念の元に続けていてよかったと本当に思っています。

ある趣味が流行っているとする。

それを同調して自分もするとする。

しかし、楽しいと感じるかもしれないし、感じないかもしれない。

私は楽しいと感じたからだが、今でも続けている。

 あるいは、楽しくないと感じたら、他の何か楽しいと感じるものを自力で探すべきであると思う。

100人中99人が良くないといっても、自分が良い、楽しいと感じるものであるならば固い信念で続けていくべきだと思う。

 本当の趣味というのは人と比べて云々ではないのです。

 

現代日本のサラリーマンの内、70%の人が仕事以外に打ち込めるものがないという。これまでの人生を、他人と同調することによって生きてきたからではないでしょうか。

 流行っているものについては同調し、流行らなくなったら捨てる。

そんなパターンが多いのではないだろうか。

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 つい2~3年まえに売れてた国内のポピュラーアーティストのCDが中古盤屋で大量放出され、あまりの大量のために、100~300円などの低価格でうりだされている現象はあちこちで見られるのは現代の他人志向という傾向を裏付ける材料になっている。

 では、全くの内部志向で良いのかというとそんなことはないと思う。

流行っていることについては一応やってみる。

それで面白いなと思われるのであれば続けるし、つまらないのであればやめる、それだけのことです。

流行のものには人を惹きつける要素があるから流行するのだし、その中には気のエネルギーが充満している。これを、自分の運にひきつけることもできるのです。

 自分は、一人でプライベートな時間を過ごすのも、4人くらいでワイワイガヤガヤするのも、20人くらいでワイワイガヤガヤするのもいずれも大好きです。

 自分ひとりで世の中を勉強するのには限界がある。

多数でワイワイガヤガヤしている時に、ふと自分にはない面や情報を学んだりするのです。
人との交流は大事です。人との交流を避けるのは、愚の骨頂です!

それでは、誰からも相手にされないでしょう。

 私が、提唱するのは内部志向と他人志向の折衷です。

どこからどこまでを内部志向にし、どこからどこまでを他人志向にすべきなのかは、個人によって様々であるからして、一概には言えない。

 個人で見極めていくしかないでしょう。

 この本の最後に、リースマンが問題にしていたのは、社会の自律性です。

 なぜ、自律性を問題にしていたのかは、根拠が薄弱です。

 思われるのは、群衆の漂うまま、意志のないまま自分の行動を律することなく決めるのが、果たして人間にとって幸せかということではないだろうか。

 よりよき社会を築くのにも当然自律的精神が必要だ。

「みんながやるから自分もこうする。」これでいいこともあれば、悪いこともある。

いや悪い面のほうが多いのではないだろうか。

精神生活においては特にそうだといえるだろう。

 内部志向と他人志向、ともに良い面もあれば悪い面もある。それを吟味しながら、これからどういう社会を築いていくか。

この本が一助になれば幸いです。

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