中井久夫 『清陰星雨』

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この本は、中井久夫という精神医学者が書いた、社会事象に関するエッセイを集めたものです。

それを某雑誌に連載してきたものを全部まとめて本にしたものです。

これは、この著者が、実際に見聞した事柄や、当時の新聞等に書かれていたことが多く載っているので、今の本に書いてある当時の事象について知ることができないことについても言及してあるので、大いに興味をそそられる媒体になっています。

「日本文化で世界に貢献しているのは花である」と、著者が中尾佐助という人と会って聞いたことなどや、碩学や歌人は神戸に多いなどということが書かれてあるのを読むと興味がそそられて、つい読み進めてしまうのです。

またロシアは、今経済発展を進めていますが、その発展の仕方が諸外国とは違います。

根拠のないインスピレーションが基盤になって発展していると著者はいいます。

しかし、そういった根拠なき論拠であっても、読み進めると、「そうだなあ!」と思わずうなってしまう論の提示の仕方は見事です!

この人は、精神医学者でありながら中国の孔子冷戦の事などにもそれなりに知識やその事象についての分析枠組みを確固としてもっていて、 「かなりの博学だな!」と思わずにいられません。

古代ローマ帝国、11世紀のアイスランド、19世紀のマレイシア、20世紀の旧ソ連、などを引き合いにだして、「新しい文化が移入してくると離婚と犯罪が増える」という事実を抽出しているところを見ると、 「この人ホントに精神医学者なの?」と言いたくなるほどの博学ぶりにイやになるほどです(笑)!

一国の政策を論じる際に、自分の利益だけを前面に出していては、単なるエゴになってしまいます。

他の人たちのことも慮る視点を持たなくてはいけません。


そのためには、自分のことも当然ながら、相手のことについて知識をつけていかなくては…。


そのためには、自分の領域のみならず、他の領域について学ぶ謙虚な姿勢がなくてはいけません。

要するに博学さですね。

この中井久夫氏のような、自分の専門分野だけでなく、他の領域についても主体的に、自分の興味関心の赴くままなんでもみてやろう、という姿勢がやはり必要だと思いました。

政策のみならず、家庭、仲間内、会社などどんな場面での決定の際に必要なのは、こういった姿勢ではないでしょうか?

この本を読んでそんなことを考えてしまいました。

戦後の日本では、自分の専門分野のことについてだけ知識があり、他の事については全く知らない人が専門家として崇められていたようです。

逆に、専門分野以外のことについていろいろ知っている人は、雑学家や濫読家としてさげすまれた時期があったようです。

しかし、ある人の本を読んで、 「雑学や濫読と呼ばないでほしい、哲学と呼んでほしい!」と書いてあったのを思い出しました。

哲学とは、その人がそれまでに学んできたことの総体であり、その人独自の知識の配合によって成り立っているし、専門分野以外のことについていろいろとその人の中に入って、その人の人格を形成しているわけですね。

人は誰でも、いろんな知識や知恵をもっている。

いろんな知識の配合でもって成り立っているわけですね。

ですから、その人の定義に依拠すれば、人間は誰でも老若男女、すべて哲学者ということになります。

しかし、「哲学者」というとどうしてもデカルトやカント、ひいてはプラトンやアリストテレスなどのいにしえの知の巨人たちを想像してしまい、どうも具合が悪いので、この際は「哲学的存在」と言っておきましょう。

今必要なのは、この著者の中井久夫氏のような哲学的存在でしょう。


何も、それは学問の世界だけでなく、今普通に暮らしている生活の中でもそうではないでしょうか?

普段、何気ない生活の中でもいろんな知識は知恵は必要です!

そのためには、いろんなことを主体的に学んでいく姿勢が必要でしょう。


今、あなたは哲学的存在であることは間違いありません。


これまでに手に入れたいろんな知識や知恵がありますから。

しかし、それだけで満足していてはいけません。

それだけで、自分のまわりの社会がよくなるはずはありません。

なぜなら、社会はいつも移り変わり、問題はいつの世でも発生するからです。

その姿勢を、中井久夫氏から学んでいただけたら幸せです。

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